そして、バックトゥー○フューチャーのデロリアンに乗るがごとく、話しは一気に四半世紀ほど前にさかのぼり・・・現地では当時サンパウロ州2部のプロクラブでトップチームに橋本さんがおり、ジュべニール(16・17歳ぐらい。日本では高校生年代?)という区分の下部組織にYコーチが在籍し、それぞれ午前と午後分かれて練習していたそうです。
ちなみにブラジルのトップクラブ(もしくは資金的に恵まれているクラブ)では、下部組織のグループが2歳刻みで分けられているそうですが、クラブによっては資金的な面もあり、育成のカテゴリーが大まかなところもあるようです。両名が所属していたクラブは、ジュベニールの上の年代となるジュニオールも無かったとのこと。
トップのプロ選手と下部組織の選手たちではサッカーを離れたところで仲良く話をすることがあっても、練習はもちろんのこと、ロッカールームなどは別だったそうです。クラブ内ではプロ選手とその他の選手たちでは『見えない壁』があるらしく、同じ日本人同士であっても橋本さんとYコーチは練習中には話をしたことがなかったそうです。
そのような中、Yコーチがジュべニールでの練習後のある日、「トップチームの練習に参加してみるか?」と誘いがあったそうです。とは言っても、いきなり紅白戦などに出場できる訳もなく、コーチから「まずはキーパー練習を手伝え」と、キーパー相手に延々とキックを繰り返す日々が続いたそうです。その後、一生懸命な姿が認められたか、毎日参加させてもらえることになり、ついには紅白戦に出場できるなど充実したブラジル生活となったようです。
橋本さんは「当時は私自身、自分の生き残りをかけてプレーしていましたので、Y君のことなど構っていられませんし、もちろん、一切口利きなどできる訳もありません。Y君本人がその後どう言っていたかは知りませんが、トップチーム入りは下部組織からの推薦がなくては入れませんし、Y君の実力でつかんだものですよ。」つづけて、「でもあの厳しい世界によく16歳ぐらいで入れたなー。その時は一切褒めなかったけど・・・」と25年以上もたってからのお言葉に「今頃ですか・・・。当時に言ってほしかった・・・。」と、苦笑いでした。。。
また、「ある時のトップの紅白戦では、Y君がプレーで目立ってしまったばかりに、完全に足を狙ったタックルを食らってましたよ。実際に足の骨を折られたんじゃなかったかな? 当時のブラジルでは、毎日クビがかかっているようなものなので、紅白戦でも生きるか死ぬかというような覚悟を持った厳しいプレーの連続でした。このあたりは、日本のサッカーの感覚にはないところでは?」とも仰ってました。
ちなみに、橋本さんは、いまだに体もプレーもキレッキレッで、ホームグラウンドで初開催となった社会人部門(ミドルチーム)の公式戦では、フルタイム出場で、勝利に貢献していました(そのプレーぶりから、後で年齢を聞いてさらにびっくりの超人キン肉○ンでした。。。)。
ちなみにこの試合には、もうひとりのYコーチ(ヒント、左利き・上手い)、Sコーチ(ヒゲ・ヘディング強い)、Nコーチ(表向きまじめ・プレーは腹黒い)、Dコーチ(背筋ピーン・地元のスター)、Tコーチ(学生時代ディエゴの異名)も参加し、それぞれに活躍が光っていました。
今回の話しで噂のYコーチは、予想通り(!?)けがのため不出場。。。今季の出場は1試合の10分のみ、1プレー、1ゴールという結果となっています(果たして、この結果はどうなのでしょうか・・・)。 | |