SSSの選手の皆さん、保護者の皆様、また私のスタッフ日記をご愛読して下さっている方々(いるのでしょうか??)、ご挨拶が遅くなってしまいましたが、新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
私、山瀬は、新年早々の3日から6日にかけて行われたレギュラーの市川遠征に帯同し、子どもたちと一緒にいろいろと勉強してきたところです。
さて、話は(強引に)変わりますが、《「15歳の選択」僕らはこうしてJリーガーになった。(寺野 典子著)》という書籍を目にする機会がありました。
と、紹介しておきながら、私はこの本自体をじっくりとは読んではいませんが、この本には元日本代表の宮本恒靖選手の「15歳のとき、挑戦することの意味を知った。」を筆頭にプロで活躍する19人のサッカー選手たちが15歳のターニングポイントに何を考え、どんな決断をしたのかが紹介されています。
そして本のタイトルを見たとき、私の人生のターニングポイントもまさに15歳の時だったなぁと、自分自身をふと振り返るきっかけにもなりました。
この本ではありませんが、今回はSSS出身のJリーガーとして15歳の時にどんな決断、考えをしたのか紹介させて頂こうかと思います。
私は昔、将来の事を深く考えたり、計画しているようなしっかり者では全くなく、中学時代までは、ただサッカーが楽しいから続けているような感じでした。
チームメート同士も仲良く、練習も楽しく、試合をすればほとんど負けず(コンサドーレとは五分五分だったと思います)、チームの力を示すことや、また自分も活躍できることで、サッカーの楽しさを感じていました。
その中、中学3年生の途中までは特に明確な目標を持ってという訳ではなく、楽しく好きだからサッカーを続けていたと思います。
転機といいますか、自分が変わっていったのは高円宮杯の予選中や終わった頃でした。私たちの代は高円宮杯で全国3位の成績を残すことができ、札幌に帰ってきた頃にはチーム内で高校どこ行く?どうする?などの会話をよくしていました。
私は兄が通っていた札幌市内の私立高校を第一候補で考えていました。チームの何人かも同様で、1つ上の代も非常に強いメンバーがそろっていたため、そのことも要因の一つでした。
ですが、ある日岩越コーチに「J下部組織のマリノスユースに行って挑戦してみろ」と進路相談中にお話がありました。正直最初は、あまり前向きではありませんでしたが、当時兄がコンサドーレでプロになるなどの影響もあり、少しずつ自分の考えが変わっていったのを覚えています。
私の中では、私立高校の部活で気心のしれた仲間たちと選手権などで活躍した後にプロになる、もしくはマリノスユースというプロになるには絶好の場所でサッカーをするのかで迷っていた時期だったと思います。
最終的には親にお願いをしてマリノスユースに行かせてもらう決断をしました。宮本恒靖選手の「15歳のとき、挑戦することの意味を知った」ではないですが、“マリノスユースでやる”というのが15歳のときの私の決断でした。
それはまさに自分の人生の一番のターニングポイントでしたし、1番大きな挑戦でした。まずは、マリノスユースの練習に参加し、自分のプレーで認めてもらうことからのスタートで、最初から入れるという保証はありませんでした。
当時のマリノスユースはちょうどフリューゲルスと合併し横浜F・マリノスになった時期でした。その2つのチームから選手が絞られることや、3つの支部のジュニアユースからのユース昇格組、さらに一般のセレクションも含めると、約300名程度から絞られたと聞いています。その中私は、なんとか入ることができました。
当たり前ですが、マリノスユースでは誰1人と知り合いはいなかったですし、実家から離れ今までの仲間からも離れ(当時は携帯電話をほとんどの人が持っていませんでした)、1人で横浜に挑戦しに行こうと腹をくくった時には、高校3年間でプロになって札幌に帰ってくるんだ、そのままトップチームに昇格するんだという強い意志を持つことができました。
と、私の場合の“15歳の選択”はこのような感じになるのですが、みなさんはみなさんそれぞれの選択があると思いますし、どのような道を選んだとしても自身の目標に近づけるよう、決意を持って頑張って欲しいと思います。
今回は、子どもたちにとって何らかの参考になればと思い書かせて頂きました。(ちなみに、高校の部活動でもJユースでも、SSSよりきついし厳しいですよ! 特にフィジカルトレーニングが・・・でも挫折せず乗り切れば、強く良い選手になれる可能性が高まります!) | |